発端 〜科学者としてライフワークとして〜
子供のころから機械大好きだった私は科学技術に憧れを持っていました。
「科学」こそが発展、未来の象徴でした。したがって私はこれまで「科学」を学ぶことを選んできました。
高校で機械を学び、機械の発展のためと大学でその素材について学び、これを基に化学についてさらに掘り下げて学びました。化学の力で新しい化学物質を合成しその誕生に感動してきました。こういった畜積を経て石油メーカーで化学製品の開発販売を通じ、社会貢献を目指して来ました。しかし、社会における化学物質の氾濫とそれに伴う環境問題の現場を目の当たりにするにつれ、「科学」のリスクの大きさを再認識するに至りました。
「科学」によって人類は進歩し大きな恩恵を得てきたことは紛れもない事実です。さらにリスクは小さいものと評価し無造作に使い続けたことも事実であると思います。
リスクの存在の大きさとは何でしょうか!?私は様々な化学物質の「安全性(基準)」にそれが隠れていると思います。
「安全性(基準)」は、我々が洗剤から医薬、食品に至るまで様々な化学物質を使用するか否かを判断する基です。「安全性」とは人の考えつく範囲の科学的根拠をつけ、極めて限定された条件においてチェックし一般化されたものだと思います。
最近の話題では遺伝子組み換え食品でよく議論されています。内容詳細は専門のサイトに任せますが、問題はやはりその「安全性」にあると思います。認証機関では厳しい安全基準があるといいますが、結局は人の考えられる範囲でのこと。しかも検査の条件設定はコストとのバランスで決められます。その結果、結局は人間の世代間での影響は時間がかかりすぎるため実際には調べられない。もっとも、地球上に存在しない未知の遺伝子の作用は厳密には予測できないのが真理であると思います。家畜の飼料として用い人間が直接摂取しないことで危険性がキャンセルされる・・・ずいぶん乱暴な話ではないでしょうか?遺伝子組み換え食品、ダイオキシン問題や地球温暖化の問題等々化学物質の引き起こす様々な問題はいつも人間の考えの及ばないところで発生しています。いくら安全基準をクリアしてもそれ以外の条件範囲では何も保証されてない、つまり決して「安全だ」ということではないのです。
リスクに目をつぶる。「安全性」と経済性とのバランスからの判断のみで現在を支える化学物質は今後も増加し続けて良いのでしょうか?私も化学を生業としていたとき、この事実に捕われていました。しかし、残念ながらすでに利用時の経済性だけでは払いきれない事態になっていることは自明ではないでしょうか。
最も基礎的な食料である農業生産物では人口増加による飢餓問題から、化学肥料や農薬は収量増加のため経済性を優先するべきだと言われます。しかし汚染された土壌は増収どころか収穫さえできない瀕死の状態に陥っています。
現代人の身体は、もはや化学物質の暴露に堪えきれず様々なアレルギー症状が深刻な問題となっています。そしてこの人体への悪影響は弱い子供にまず現れています。
そして我々人間が「科学」を使用して出す様々な塵芥は、身近なプラスチックから究極的には原子力発電から生まれる放射性廃棄物に至る科学技術粋を集めたものまで、あらゆる工業製品が行き場なく溢れ返り、処理方法が無く埋め立て廃棄され続けています。これらはまるで恥部のように土に埋めて覆い隠し続けられています。しかしもはや自然界は受け入れられず、使用した人間の一生をはるかに越えて長い時間ゴミとして地球上に存在し続け、環境を汚染し続けています。
膨大なエネルギーを投じて作った工業製品を我々はわずかに利用して廃棄します。塵芥は人間が科学に頼る限りエネルギーのロスとして永久に増加し続けるでしょう。いかに処分技術が進歩してもです。なぜなら人間の活動の中でロスの無い永久機関は存在しないからです。万が一高度な処理技術ができたとしてもそもそも人間が完全な存在でない以上、人間の作り出す「科学」は100%にはなりえないからです。
現実問題ではしかしながら、私も含めたすべての人がもはや「科学」の恩恵無しに生きてゆくことは出来ないでしょう。この矛盾にどう対処するか。私なりにはもっとロスの少ない「科学」と「自然」の共存の道を考えるしかないと思っています。今までは「科学」対してあまりに無神経に扱い導入してきたと思います。これにブレーキをかけ、さらに必要の「科学」以外を減らしてゆく努力をすべきだと思うのです。「科学」の問題をしつこく指摘しておきながらこれには賛否があり異論があると思います。しかしながらどちらかをゼロにするなどはもはや理想論に過ぎず、このような机上の空論は無用であると思います。必要なのは冷静に現状を把握した現実的な取り組みだと思います。
「必要の科学」を選定し、周りのものすべての「科学」での置き換えにブレーキをかける必要があると思います。この「必要の科学」に絞り込むためには昔の良いものをしっかり残す。いや、今となってはこれまでの偏りからむしろ改めて昔の物や仕組みを中心に据えて補う「科学」を共存させて行く。そして「科学」によって生み出されるものは、今後は社会の仕組みも含めてリサイクルやリユース、つまり環境保全を前提としたものでならなければならないと思います。
「科学」に使われる。これは人がいつの間にか陥った現実であり、豊かな生命の存在環境を維持しつつ「科学」を使うということが必要かつ重要だと思います。いかに「科学」とつきあうかこれが、今後求められているキーワードであると思います。そして今、科学者自身こそがまずこれらを意識した企業活動、社会活動を実践して行くことが求められていると思います。
共存の方法「循環と自給の生活」具体的には私の考えはここに立脚しています。前置きが長くなりましたが、これ以上環境負荷を増加させない生活として、「必要なものをなるべく自ら自然の中で生み出し、長く使い、役目を終えたものを正しく自然に返し次の生産につなげる」こと。一方的に消費し続ける「大量生産大量消費」による塵芥の大量発生を少しでも低減したいと思っています。
「有機農業」にはこの循環のシステムがあり、これが農的生活を始めたいと思った発端の一つです。これは今流行の考え方ではありますが、現在の必然の考え方だと思います。
有機農業的思想については現代を愁えている有機農業家の諸先輩方の深い論議があります。すくなくとも機械や設備など何は無ければ出来ない生活ではなく、例えば鍬、鎌や篠竹つまり基礎的な道具、自然にあるものを知恵と工夫で使いこなす、生き物人間本来の自然と共生する生活を基礎としたいと思っています。
百姓の技の一つとしてこの「必要の科学」を選ぶことを位置づけたいと思っています。「科学」を使うためにはそれを知らなければならないと思います。私自身「科学」知る者としてその必要性を見極め、必要最小限の選択をし、リペアを重ね、いわゆる昔の物といかに共存させることができるかを意識してゆきたいと思っています。私は必要最小限の機械や電化製品は使うでしょう。コンピューターも使いむしろ農業に必要な情報を集め、このホームページの様に私の情報を積極的に発信して行きます。エネルギー浪費の工業製品の使用と指摘もあるでしょうが、私としては次から次へと新しいものと取り換え、遊びに浪費しているわけではないということが重要であると考えています。「必要の科学」を使うエネルギー以外の消費をいかにして低減してゆくか、様々な努力をしてゆくつもりです。 <m>